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  • 2014.12.06 Saturday

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人生とは

  • 2014.09.01 Monday
昨日で羊飼いとの一年契約が終わった。そして、今年度について、再契約はなしということになったそうだ。
昨年度は、十数年やってきて初めていい(ましな?)羊飼いに出会うことができた。うちとしては、この羊飼いがみてくれないならば、もう羊は売ってしまうしかないという状況だったので、近いうちにそういうことになるだろう。一時は 650 頭いた羊が、結局は 200 頭台になってしまった。1000 頭にするのがハリルの当初からの目標で、羊は毎年一頭産むので普通に考えれば 1000 頭は一年で達する計算だが、実際は羊飼いがみな泥棒なのとオーナーとしての未熟さゆえに、毎年損をしてきたというところだろう。それでも数年前(スウェーデンにいた頃)までは、毎年いくらかの利益が上がっていたそうだが、わたしたちがイランに移ってからはひどくなる一方だった。ここ 1 〜 2 年はうちだけでなく、飼料の値上がりと羊の値下がりのために家畜オーナーにとってはひどい状況になっている。今では厄介ごとになってしまった羊をなんとか手放そうと、みんな必死だ。

クミシュテペ(グミシャン)での生活は、とくに経済的に、来る前に描いていた理想のとおりにはいっていない。今のところそうだし、これからも状況は変わらないか、悪くなることだろう。それは今のイランの経済状況が大きく関わっているので、自力でどうこうできる範囲は限られている。だから希望も少ない。傍から見たら、こんな場所から早く引っ越してしまえばいいのにというところだろう。実際にそう言われることも多いし、自分たちもそう考えないわけではない。
けれど、ハリルもわたしも、ここよりほかに理想的な暮らしができる場所はないだろうと、心のどこかでは分かっている。ボーダさんが「砂漠生活の思い出」に書いてくれたように、ここではいまだに 19 世紀的な暮らしをすることが可能だからだ。自分の手で牛乳を搾ってヨーグルトやチーズを作ったり、育てた家畜や家禽を捌いて肉を食べたり。ホームセンターなどないので、あらゆるものを自分で手作りしなければならなかったり。不便なことはやたらにあるけれど、不便なままでもなんとかなってしまうここの社会には、先進国にはない自由さもある。
ボーダさんの記事には、『大草原の小さな家』に憧れるというコメントがいくつもあった。「でも実際、自分には無理」と思う人もけっこういるだろう。わたし自身が「無理」派の一人だったのでその気持ちは分かるけれど、頭で考えていることと現実にやってみることは別のことだ、とあえて書いておきたい。わたしは若いときでさえ、インドやネパールなんかを旅する人の気が知れないと思っていたタイプだ。旅行者としてでも不便な思いをしたくないし、貧しい人たちに接するのも避けたいと考えていたからだ。
そんなふうに過ごしてきて東京で便利な生活に浸っていたけれど、いつからかそれをだんだん苦しく思うようになっていた。働いてご飯を食べて生きる、というそれだけのことがどうしてこんなに大変なのか、と思うほど生活は複雑化していると思った。肉体労働できついのではなく、人生の本質的なことに絡みついたいろいろな細かいことが煩わしすぎて、大事なことを味わえていないと感じるようになったのだ。
同時に、完全な妄想ではあったけれど、わたしの頭の片隅にはいつも石器時代や、こどもの頃にテレビで見た「ギャートルズ」の世界がユートピアとして存在していた。そこは学校も会社もなくて、お父さんが獲ってくるマンモスの肉がごちそうだ! という世界。ものごとが単純で、必要なことが最低限の、楽しそうな暮らしだ。うちは違うけれど、砂漠にユルタを張って暮らしている羊飼いたちは、21世紀の今でもそういう人生を過ごしている。空と砂漠とユルタと動物たちで、完結する人生もあるのだ。

これはまとめでもなんでもないけれど、「こういうふうに生きたい」とか「こんな暮らしをしたい」と思い描くことは、それに近づくための突破口なのかもしれない。よっぽど強く願わないと、叶わないけれど。

命について

  • 2014.03.31 Monday
夕方、搾乳が終わって庭の草を刈っていたとき、近くで子犬の唸る声が聞こえていた。この子犬は子牛用の小さな小屋の後ろに隠れて唸っていたのだが、なにかが喉につかえたのか、変なものを食べたのか、苦しそうに息をし始めたと思ったら時間が経つにつれてそれがひどくなってしまった。ハリルが子犬の口に手を入れてつっかえているものを取ろうとしたようだが、手を噛まれただけで助けることはできなかったようだ。子犬はそのあと、小屋の後ろに隠れてしまったというわけだ。
絶え間なく唸る子犬の声を聞きながら、ひょっとしてこの犬は夜のうちに死んでしまうかもしれないという考えが頭の中をよぎった。子犬や子猫は、ちょっとしたことでその命を落としてしまう。それは何度か見てきたことだ。最期になって、ウーウーと苦しみ、そして死んでいくということは、ひょっとして明日自分の身にも起こるかもしれない日常の出来事だ。
実際、ハリルは数か月前、そういう状況にあった。高速で走ってきた車に、バイクに乗った状態ではねられて、飛んで、固い地面に落ち、骨を何本か折って頭も打ったのだ。体力のない人だったら死んでいただろう。その事故は、気をつけようがなかったと思う。背後から、しかもブレーキなしで走ってきた車にはねられた。はねた人は常習犯で、ハリルは三人目の被害者だと、実弟が見舞いに来て言ったそうだ。本人は、病院にいるハリルのところに来て、「ここではお前に勝ち目はないからな。悔しかったらスウェーデンに行け。」というようなことを言ったそうだ。ハリルが裁判所に訴えようとしても、たくさんいた目撃者は全員買収されたようだし、警察もうその調書を訂正しないばかりか、訂正のために余分にお金を取っただけだったので救いがなかった。おまけに、事故現場に面する銀行の支店長も、防犯カメラの解析による証明を一度は約束してくれたのに、テヘランに問い合わせた後はそういう映像はなかったなどと、急に歯切れが悪くなったそうだ。
この件のあまりの無念さに、話がそれてしまったが、子犬の断末魔を聞いてわたしが考えたことはその話ではない。命というのは、本当にはかないものだということだ。生きものの生死に頻繁に接していると、それを身近に感じざるを得ない。自分もウーウーと苦しんで、ウッと最後の瞬間を迎えるのだという実感が湧いてしまう。そのことを思うと、家の工事が進まなくて不便だとか、お皿がもう10枚ほしいだとか、新しい布団を手に入れたいだとか、日々頭の中を占拠しているそういうことはまったく重要なことじゃないなと思えてくる。たとえば老後のお金の心配をするとか(わたしでもたまにする)、なんて「命」について忘れているんだろうと思ってしまった。先のことを考えずに、やみくもに生きればいいということではもちろんないけれど、あらゆる命というのは次の瞬間なくなってしまっても不思議ではない存在なのだということを、再認識したということだ。だからやっぱり、どうでもいい些末なことに惑わされたり時間を割くのではなくて、この世に生まれて与えられた自然の恵みを享受して、それを精いっぱい味わって、生きている証のようなものを自分の命に刻みつづけるべきだと思ったのだ。遺伝子を次の世代につなげるのだとか、そういう考え方は命についていうとき、ちょっと的外れなような気がする。わたしにとっては、命はもっとホットなものだ。

自然と人間

  • 2014.03.03 Monday
ハリルがこどもの頃、カスピ海の近くの林にはクマが出たそうだ。結局は人間に殺されていなくなったそうだが、野生動物の生息ぶりは今とはまったく異なったということである。
動物だけでなく、カスピ海周辺の自然は非常にダイナミックなものだったようだ。今うちが羊の群れを預けている羊飼いも海の近くに住んでいるのだが、その年上のお兄さんの話によると、羊を放し飼いにしている地域は、彼がこどもの頃はメロン畑だったという。そしてその後、同じ場所で魚を捕るようになり、今では家畜を放牧している。ハリルが覚えている限りでも、海周辺の自然は今とまったく違って水位が高かったし、ジャングルのように植物がはびこっていたので植生も違ったのだろう。ハリルは折に触れて、キツネやウサギを捕まえて遊んだ話をしている。こどもの頃に、そういった自然の中に身を置くことによって感じた幸福感を、大人になってからは見つけたことがないという。
小さなハリルにとって、父親が持っていた海の近くのコテージまで歩いていって、そこで過ごす時間がなによりもすてきだったそうだ。コテージから見える青い海や林、生い茂る草を食べる羊の群れ、水中を泳ぎ回るたくさんの魚、浜辺に群がるオットセイなど、それは色鮮やかで活き活きとした世界が広がっていたという。キャビアの入った魚やそれと物々交換して手に入れた牛乳、ヨーグルト、チーズなど、おいしいものを食べた記憶も鮮明だそうだ。あれほど豊かでしあわせな気持ちは、その後、世界中どこを回っても手に入れたことがないという。
人間がそれほど深い幸福を感じるための環境は、この世界にはもともと与えられている。けれど、そういうことよりも、自動車や武器の研究に精を出す人間が多過ぎて、世界中にアスファルトを敷いたりすることによって大事なものを覆ってしまっているとハリルは言う。エアコンをつけてより快適な環境を作らなくても、人間にはもともと暑さや寒さに耐えることのできる力が備わっているのだそうだ。それなのに現代の人間たちは、一見そうみえるけど本物ではないたまごのようになってしまった。どういうことがというと、殻があって黄身や白身はあるんだけれども、肝心の精も味もないものになっている。都市に暮らして本来の力の弱ってしまった人間は、もう自然に戻ることはできないし、戻りたがらないだろうという。
砂漠人に言われるとぐうの音も出ないが、少し反論すると、わたし自身は力の弱ってしまった都市の人間の代表のようなものだが、それでも自然の中に何年か身を置いて、大きな筋肉と溢れんばかりの(?)血を増やしたように思う。それによってある種の弱さは少し克服されたのだ。どうしてわたしがそれをできたか、その理由ははっきりしている。わたしが「そうしたかったから」、それだけだ。わたしは自分の弱さを自覚していたけれど、どうやって克服するのか、その方法が分からなかった。だからハリルに偶然出会って彼の話を聞いたときに、ピンとくるものがあって、それに従って生きてみた。ある人は「神は乗り越えられる試練しか与えない」と言った。砂漠人ハリルによれば、その試練を乗り越えるための人間が持つべき力は、自然の中で鍛えることによってしか得ることができないということだろう。

続・食品の質のはなし

  • 2013.09.24 Tuesday
前の記事では、食べものの質について、特に「早く、大きく育てる飼育・栽培方法」について書いた。これは知ってみれば単純明快なしくみなのだが、わたしはハリルから習うまでよく理解できていなかった。自然と離れて生活している多くの人はそうじゃないだろうか。何もかも店で買ってきたものを食べて育っていたら、そうなって当然だ。でもその食品生産のしくみについて考えないことと、そういうしくみが存在していないことは同じではない。自分は気にしていなくても、自分の体は思ってもみない質の食品でできあがっているというのが、特に先進国に住む人々の現実なのだろう。そして彼らは、いまだ農業技術の発達していない、有機栽培をしている貧しい国の人々の食生活を目にして「食べものが少ない=貧しい」などと考えがちだから、皮肉なものだ。
ハリルはトルクメニスタンを始めとする旧ソ連の国に何年か住んだことがあって、そこで肥料に混ぜる物質を合成する工場や、大規模農園などを観察する機会があったそうだ。農薬など使わず、種まきから収穫まですべて手作業で行なっていた祖父のメロン栽培を手伝いながら育った彼は、成人してトルコやスカジナビアに住むようになってからも、自然や食物について少なからず関心を持って過ごしてきたと言っている。トルクメニスタンでは石油を売る仕事をしていたハリルだが、自分で市場に行って食材を買い、食生活の質を落とさない姿勢はつねに持続していたようだ。
フィンランドで友人の家に招かれたとき、友人の母親がスープをごちそうしてくれて、それを食べたあとにひどく具合が悪くなったという話を何度もしてくれる。そのスープは当時はやっていた缶詰のスープだったそうだが、自然のものを食べて野性的に育ったハリルの体は、化学物質が含まれた食品を受けつけなかったのだろう。スカンジナビアに来てからも、そういう経験をするたびに、食べものの質について深く考察するようになったようだ。ちなみにハリルが後に移り住むことになるトルクメニスタンに通い始めたのは、フィンランドやスウェーデンに何年も住んだ後のことである。
ハリルは商才のある人だと思うけれど、彼の一番の専門分野は「自然」だとわたしは考えている。人間の生が自然とどう関わっているかという部分の内容を、食べものを中心によく知っていて、それを実践している人なのだ。多くの社会を観察した経験に基づいて、ある社会が抱える生活の問題を、簡単に説明してくれる。理屈だけでなく自身が健康的な暮らしを実践しているところに、その説得力があるとわたしは思っている。
さて、ハリル賛辞はこのくらいにして(笑)、本題にもう少し踏み込まなければならない。
合成された尿素(ウレア)というのは、アンモニアと二酸化炭素のことで、ハリルの記憶が確かならば、その割合は2:8だと言っている。配合によって、別の種類の尿素をつくることができるそうだ。そして尿素のなにが問題なのかというと、尿素を使って育てた植物は短期間で大きくなるため、その繊維質が十分に育たない。繊維が十分でない食品が体内に取り込まれると、エネルギーにならなかった部分は何メートルもある腸の中を動いて外に出るのが困難になる。現代社会においては、多くの人がこの問題を抱えている。繊維の少ない食品を食べて排泄が難しいので長いあいだトイレに座ることになり、その結果、腸の最後の部分に負担がかかって、しまいには痔に至る。自然のものを食べて消化・吸収がスムースに行なわれるということは、体に取って非常に大事な条件なのだ。
繊維質が豊富な食品というのは、決して海藻類だけではなく、自然に育った肉・魚・野菜でもありうるはずだ。食べものは、食べたら体にエネルギーを与えて、残りは排泄される。ところが自然のものでない化学物質は排泄するのが難しく、いくらかは体内に残って吸収されてしまうんじゃないかともハリルは言っている。また彼の経験から言うと、尿素を使った農業をしている社会の人たちは、そうでない社会の人たちよりも、太っているのだそうだ。
肉や魚についても、野菜と同じしくみで育てられているということがある。より早く育てるために、ホルモンや抗生物質を使う。そうすると、肉も魚も繊維質が育つ暇もなく大きくなる。商品としての食品としてはなによりだが、それを食べる人間も同質の生物になってしまうということはいただけない事実だ。
尿素(肥料)と食品の繊維質の話は、より明らかになっただろうか。少し憂鬱になる食品の話のあとは、そんな社会に生きるわたしたちは何をどう食べたらいいのかについて、近いうちにハリル師匠にアドバイスをもらって記事にしたいと思う。乞うご期待。

食品の質のはなし

  • 2013.09.23 Monday
すいかをたくさん(半トン!)買って、地上階の倉庫に保管している。自分たちで食べるのに加えて、牛にもやるためだ。前にも書いたとおり、旬のすいかの値段は1キロ5円以下だった。親戚から大量に買ったことで最大限に値切られているものの、倍にしたところで安いものだ。
そんなにたくさんのすいかが、腐らずにもつものなのか? というコメントをいただいて、わたしも初めてそのことに思い至った。そういえば、ここではすいかを冷蔵庫に保管する人はいない。切ってしまったものはもちろん入れるけれど、まるごとのすいかはどの家も外にごろんと転がしているものだ。
しかし、どんなに小さくても虫食いなどの穴があいているすいかは、中身が傷んでいる可能性が高い。穴から空気や微生物が侵入するからだろう。落としたりして、ひびが入っている場合も同じだ。でもそうでもない限り、たいていのすいかは思ったより長いあいだもつ。ハリルが言うには、旬のすいかに限ってそうなのだそうだ。どういうことかというと、季節の初めに出回る果物、いわゆる初物は、なるべく早く大きくして売ろうということで、それなりの手段を用いて栽培されるのだそうだ。合成された尿素が肥料としてたくさん使われている。それで効果的に野菜や果物は大きく育つけれど、腐るのも早い。合成された化学物質というのは、空気(酸素)と反応しやすいんじゃないかとハリルは言っている。
それとは反対に、化学物質は使わず自然の恵みによって栽培されている果物は、太陽と土の養分と水を吸収して育つ。時間はかかるけれども、育ったら腐るのにも時間がかかるはずだ。だから、旬のすいかはしばらく倉庫に放っておいても問題ないのだ。メロンなんかも、ここでは丸ごと屋根裏に寝かせて、冬に食べるという習慣がある。
ところで肉や魚についても、似たようなことが考えられる。家畜や養殖の魚は、飼料という名の色々なものを混合した物質を食べて、本来成長にかかる時間をかけずに短期間で育っている。いくらでも食べられちゃう肉とか、調理するとべしゃっと小さくなってしまう魚とか、そういう食品は与えられた飼料の質をそのまま表わしているように思う。野生で育った羊や、海から捕れた魚は、その身に明らかな弾力性があって、繊維があるものだ。だからたくさんは食べられない。そういう食品は、肉でも魚でも野菜でも、少し食べるだけでもその栄養が身になるので、おなかがいっぱいになるものだ。
食品の問題に、気になる添加物というものもあるが、それ以前に素材そのものがどう育ったものなのか、その食品の質を知ることは健康な体を作っていく上でとても重要になってくる。人間だって、食べたものがその身になるのだから、短い期間に飼育されたり栽培された食品を食べていると、摂取できる栄養が少ないわりに、簡単に太るということはありうると思う。

人間にとって大事なこと・その2

  • 2013.07.30 Tuesday
今の日本人の暮らしの内容は、人間本来のそれと大きくかけ離れているんじゃないか? だからせわしなく続く「しなければならないこと」に追われて、よろこびに満ちた、しあわせな時間を失っているんじゃないだろうか? そんなことを書いた。
簡単な例をひとつあげてみる。スウェーデンに住んでいたときの、夏の楽しみについて。ヨーテボリでは、家から歩いて五分のところにある裏山でブルーベリーやラズベリーを摘むことができた。野生のものをバケツいっぱい摘んできて、それをむしゃむしゃ食べる。これは採集狩猟文化という、人間の生活基盤のひとつだ。日本人だって、最初はみんなこれだった。狩猟採集の暮らしには、いつ食料が手に入らなくなるか分からないというリスクだけでなく、自然と直接関わることの中に、「生き延びるため」を超えるよろこびがあったはずだ。赤や青に色づいた甘い果実を、薮の中から見つけて自分の手で摘みとることの楽しさ。辺りには鳥がさえずり、樹々は揺れ、空気は冷たく澄んでいる。スウェーデンでは今でもこれが実践できるけれど、工業化がさらに進んだ日本の都会ではもうできないだろう。それどころか、今は放射性物質への心配すらある。光化学スモッグだって忘れているだけで、存在している。
工業化だとか経済だとか、今の環境を批評する切り口は色々あるのだけれど、それを脇にやっておいてわたしが考えたいのは、人間に生きるよろこびを与えるものは何なのかということだ。人間は、野生のベリー摘みのような、かなり単純なことをして満足して暮らしていける生きものなんじゃないだろうか。あるいは、魚釣りでもいい。人並み以上の財産や権力を手に入れたいとか、野望のある少数の人は別として、多くの人間は「食べていければそれでいい」と思っているんじゃないだろうか。それなのに、今の日本に生まれたら、食べていくためだけにものすごく複雑な人生を歩むことを余儀なくされる。何年間も学校に通わなければならない、一分単位で時間を守らなければならない、ごみは分別しなければならない、人生は仕事、家を持つには何千万円も払わなければならない、などなどなど、ただ食べていこうとするだけで、あまりに重い義務が課されてしまう。これをまじめにおとなしくこなしていたら、人生のおいしいところを味わい損ねてしまっても当然だ。本来は、自然の中にあって、そこから果実を享受して生きるような暮らしから、今はあまりに遠いところに来てしまっているからだ。
だからといって、原初の自然が残っているイランの砂漠へ引越すべきだ、と言っているわけではない。ハリルとわたしのような強硬派はそれでいいけれど、多くの人はそういうわけにもいかないだろう。でも、もし日本のような経済先進国に暮らしていて、豊かなのになぜか満足していない、とモヤモヤしている人がいたら、その原因は人間みんなに共通するはずの、そんなところにあるんじゃないか、とわたしは思う。モヤモヤの解消法はシンプルだ。太陽とか、水とか空気とか、花とか緑とか、お金を払わなくても太っ腹に恵んでくれる自然のものに自分をゆだねてみる。それも、できる限り人間の手がついていない状態の自然を見つけ出して、そこにできるかぎり深く身を置いた方がいい。それは摘み草かもしれないし、動物や植物を育てることかもしれないし、山に登ったり海に潜ったりすることかもしれない。頭で予想したとおりにいかないことに従ってみて、自然の摂理を確認する。そういうことを自分のからだを使ってしていると、いま過ごしている、その時間を味わう能力が少しずつ身についてくると思う。というよりは、本来持っているはずの生物としての感覚を呼び覚ますということになるのだろう。そして人間の短い一生は、自然と関わる酸いや甘いをなるべく多く味わうことで、豊かなものになるんじゃないだろうか。人生は「生きる意味を見出すためにある」という人もいるが、わたしは、人生はそれを「味わうためにある」と思いたい。しかもそれはあくまでも、人間の手の加わらない、この世の自然に恵んでもらう味わいのことだ。(おわり)

人間にとって大事なこと・その1

  • 2013.07.29 Monday
例のテレビ番組でわたしの不便な暮らしぶりをみて、「自分は快適な環境にいるのに、朝からしなければならないことに心をとらわれて、日々ストレスを感じながら過ごしている。そんな自分の価値観がつまらないものだと感じた」というような感想を送ってくれた友人がいる。
たしかにここでは、電気・ガス・水道が整ったあとでも連日の断水、水を汲み上げるポンプの故障、停電、電話線が盗まれる、町中から自宅までの道路や排水溝がまったく整備されない、などなど、ライフラインからして不便のオンパレードだ。牛の世話を始めようと思って蛇口をひねったとき、水が一滴も出てこない状況を想像してほしい。わたしでなくとも「きーっっ」となるだろう。それでも彼女が言うとおり、わたしはそんな環境で毎朝気持ちよく目を覚まし、一日を過ごしている。肉体労働をして、動物や植物の「命」だとはっきり分かるものを食べ、夜には心地よい疲れとともに眠りについている。ストレスがないといったら嘘になるが、客観的に考えてみると、わたしはとても快い、豊かな暮らしをしているんじゃないだろうか。
人間にとって快適な環境とはなんだろう? 365日、電気や水道が止まることのない状況は、まちがいなく快適だ。ダイヤどおりに動く電車やバスもとても便利だ。お金を出せば、あらゆるものが手に入る。ただ、それだけのサービスを全国的に実現するために、どれだけのエネルギー資源や労働力が日本で消費されているか、その結果どういうことになっているか、わたしたちはもう知っている。福島の事故によって、原子力発電のリスクについては思い知らされているし、日本で雇われて働くことの厳しさは誰もが体験していることだ。それは「そういうものだ」とこどもの頃から教え込まれているからこそ、「仕方がない」という人も多いけれど、その実、心や体のどこかで「こんなはずじゃない」とモヤモヤしている人だって多いはずだ。わたしはその一人だった。とてもやりがいのある仕事を手にし、家族も持ち家もあって、何一つ不足のないはずの快適な環境に暮らしていたにもかかわらず、自分の心や体はそれほど満足していなかった。それこそ、毎日のタスクを片づけることに縛られ、つねに少し先のことを案じて、そのとき過ごしている時間を十分に味わうというような感覚はとても持てなかった。
でも今でははっきりとこう思う。不足のないはずのそんな自分の暮らしに満足できなかったのは、当然じゃないだろうか? そういうふうに、セコセコ生きているわたしたちの価値観が陳腐なわけではないのだ。楽しいと思えない自分を責めるのは筋違いだ。なぜなら、本来の人間の暮らしは、今の日本人が生きている内容とはほど遠いところにあるんじゃないかと、わたしは思うからだ。(つづく)

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